現代のオープンワールドゲームはTRPGの夢を叶えたか?
高校生のときに出会ったテーブルトークRPG(以下TRPG)は、紙とペン、そして仲間との会話だけで広がっていく無限の冒険の世界に、私は夢中になりました。
あれから数十年がたち、ゲームの技術は大きく進歩し、今ではSkyrim、ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド、エルデンリングといった「オープンワールドゲーム」が多くの人を虜にしています。
広大なフィールド、自由な行動、一本道ではないストーリー展開など、これらの最新ゲームを見ているとこう思うのです。
「これは、あの頃TRPGで思い描いた“理想の冒険”になるのではないか?」
この記事では、TRPGと現代のオープンワールドゲームを比較しながら、それぞれの魅力や違いを考察していきたいと思います。
想像力から映像へ──TRPGとオープンワールドの世界観
TRPGの最大の特徴は、すべてが想像力で進行するということです。
たとえば、ゲームマスター(GM)が「あなたたちは霧に包まれた森に立っている」と言えば、頭の中には各自違った“霧の森”が広がります。
そこに明確なビジュアルはありませんが、それこそがTRPGの魅力でもありました。
一方で、Skyrimやエルデンリングといったオープンワールドゲームは、その“想像していた世界”を可視化し、操作可能にした存在です。
・Skyrimの雪に覆われた山脈
・ゼルダの草原と空島
・エルデンリングの禍々しくも荘厳な世界
こうした風景は、TRPGのプレイヤーが心の中で描いていた冒険の舞台そのものと言っても過言ではありません。
つまり、現代のゲームは「想像を形にしたもの」として、TRPGの夢を具現化したとも言えるのではないのかと思うのです。
自由度と制限のはざまで
TRPGとオープンワールドゲームはどちらも「自由な行動」を重視していますが、この“自由”には質の違いがあります。
TRPGの自由=プレイヤーの発想次第
TRPGにおける行動の自由は、ほぼ無限だと思います。
「王に謁見する」どころか、「城の壁をよじ登って侵入する」「衛兵を買収する」「変装して潜り込む」など、プレイヤーが思いついた行動は、ルールとGMの判断次第で何でも可能です。
たとえルールブックに書かれていなくても、「やってみたい」と言えば、GMはその可能性を模索してくれます。
そこにサイコロの女神が微笑むかは運次第ですが、その“行動の提案そのものがゲーム”だったのです。
オープンワールドゲームの自由=用意された選択肢の広さ
一方、Skyrimやゼルダも自由度の高さで知られていますが、その自由はあくまで「プログラムされた範囲内の自由」です。
たとえばSkyrimでは、街の住人を全員倒すことも可能ですし、盗賊ギルドにも魔法大学にも加入できます。
しかし、そこには「可能な行動」と「できない行動」が明確に設定されており、それを超えることはできません。
「自由に見えて、実は整備された自由」というわけです。
これは決して悪いことではないと思いますし、むしろ、何百万人というプレイヤーに一定の品質で“自由”を提供するには、ある程度の制限が必要だと思われます。
ただ、「どこまでが自分の選択で、どこからが作られた道なのか?」という違いは、TRPGとの大きな隔たりかもしれません。
物語のつくり方の違い
TRPGとオープンワールドゲームのもうひとつの大きな違いは、「物語がどのようにして生まれるか」です。
TRPGは、物語を“共に創る”遊び
TRPGでは、物語は固定されていません。
プレイヤーとGMのやりとりによって、毎回まったく異なる展開が生まれます。
たとえば同じシナリオでも、Aグループでは王国を救う英雄になり、Bグループでは王国を裏切って反乱軍の将になるかもしれません。
物語は、プレイヤーが発言し、選択し、サイコロで運命を決める中で、生き物のように変化していくのです。
この「自分たちで物語を創っている」という感覚こそ、TRPG最大の魅力だと私は思っています。
私がTRPGのクエストで魔物討伐のクエストを受けたのですが、結局魔物を引き連れて王国を滅ぼすという最悪な結末になったのを覚えています。
多分GMは全く想定していなかった結末になったのではないかな?と思っています。
オープンワールドは“分岐する映画”のような構造
Skyrimやゼルダも物語性は非常に高く、没入感も抜群です。
しかし、そこにあるのは基本的に「作られた物語」であり、プレイヤーはその中の役割を演じる存在でだと思います。
選択肢によって結末が変わることはあっても、それは「用意された分岐」の中の話で、白紙の物語を自分たちで綴るような自由さはありません。
それでも、グラフィックや音楽、演出の力で「物語を体験する」ことの喜びはTRPGとはまた違った魅力があります。
仲間との会話が中心だった頃
TRPGは、何よりも「会話」が中心の遊びだったと思います。
「この扉、罠があるかもしれないな」
「よし、僕が調べてみる」
「君がドワーフで感知能力あるから、頼んだ!」
こんなふうに、仲間との言葉のやりとりでゲームが進んでいきます。
その場に集まって、笑い合い、悩み、成功に歓声を上げ、失敗に肩を落とす……そういう“リアルなコミュニケーション”が、TRPGを特別なものにしていたと思います。
オープンワールドゲームは基本的にソロプレイが中心ですが、近年ではオンライン機能を活用し、協力プレイやチャットを通じて「共に冒険する感覚」も再現されつつありますが、あの“言葉だけで物語を紡いだ体験”は、今となってはとても貴重な記憶です。
TRPGの夢は叶ったのか?
さて、最初の問いに戻りましょう。
「現代のオープンワールドゲームは、TRPGの夢を叶えたのか?」
私の答えは──「半分はイエス、半分はノー」です。
・頭の中でしか存在しなかった世界が、今や映像として目の前に現れるようになった
・「自由にどこへでも行ける」という夢は、ある程度実現された
・一人で壮大な物語を体験できる仕組みが確立された
これらはまさに、かつてのTRPGプレイヤーが夢見た未来です。
しかし一方で、
・行動の自由度は、実は制限付き
・物語は「創る」よりも「与えられる」ものに
・言葉と想像力によるやりとりは失われつつある
という点では、TRPG本来の姿とは異なる道を進んでいるとも言えます。
最後に──冒険のかたちは変わっても
TRPGもオープンワールドゲームも、どちらも“冒険”という体験を提供する素晴らしい文化です。
冒険のかたちは変わったと思います。
ダイスは消え、代わりに高精細なグラフィックが現れました。
でも、「自分だけの物語を生きる」という本質は、今も変わっていないのではないでしょうか?
これからも、ゲームは進化し続けるでしょう。
けれど、私はたまに思い出すのです。
高校時代、机を囲んでTRPGを遊んだあの時間を、ページの端に書いたキャラクターのメモを、そして、仲間たちと交わした「次回の冒険、どうなると思う?」という会話を
あの感覚こそ、私にとっての“本当のオープンワールド”だったのかもしれません。
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